平成24年 藤香会 史跡巡り資料より

2012年10月23日(火)

佐賀県立名古屋城博物館

名古屋城博物館は、平成5年10月、名護屋城の広大な遺跡の保存準備事業の中核施設として設立されたもので、その活動内は、史跡の調査・保存・日朝の交流史の研究や資料の収集及び展示の紹介、それらを踏まえたうえでの日本列島と朝鮮半島との文化・国際学術交流などの多方面に及んでいる。

常設展示は「日本列島と朝鮮半島との交流史」を主題として、『文禄・慶長の役』と特別史跡『名護屋城跡並びに陣跡』について、その歴史的位置付けを明らかにすることを主要な目的 としてる。この主旨から室内を「名護屋城以前」・「歴史の中の名護屋城」「名護屋城以後」・「特別史跡名護屋城跡並びに陣跡」の4コーナにわけて展示を行っている。

名護屋城跡並びに陣跡

天正18年(1590)天下統一を果たした豊臣秀吉は、翌19年10月、朝鮮出兵の基地として、肥前国松浦郡名護屋の地に城を築いた。ここはもともと、松浦党波多三河守親の家臣名護屋越前守経述の居城(柿添城)が置かれていたが、当時は山が多い荒地で厳しい自然環境だった。しかし、地理的に朝鮮半島に近く、また、入江が深く、船が停泊できる地形であるなどの好条件を備えていたことから、秀吉はここに全く新しい巨大な城を構築させた。築城普請惣奉行に浅野長政を、縄張奉行に黒田孝高を任命し、城郭の土台となる石垣普請は、九州の諸大名が担当した。こうして海辺の寒村に、わずか5ケ月余の短期間で大阪城に次ぐ雄大な城が構築された。
また、城の周辺には、全国の大名の陣屋120余が築かれ、遺構が良好に残存する23の陣跡が国の特別史跡に指定されている。 陣跡は名護屋城を中心に周囲約3kmの圏内に収まっており、分布の傾向としては、在陣しる東国大名の陣が城周辺に、渡航した大名たちの陣が周辺部に位置している。 こうして、名護屋の地はは常時20万人ほどが滞在する「京をもしのぐ」一大都市となったのである。

文禄元年(1592)4月25日、秀吉は朝鮮渡海をめざして名護屋城に入り、ここから朝鮮に渡海した諸大名への指令を発した。文禄2年5月から6月に、講和交渉にあたって明の使節を迎えた際、秀吉はかれらを名護屋城で歓待している。 秀吉の死後、名護屋城は事実上の廃城となり、唐津城主寺沢広高は名護屋城の櫓・門を唐津城に移し、伊達政宗は大手門を仙台城へ移築し、松浦鎮信は城瓦を平戸城に運んだといわれる。 そして、島原の乱の後、九州を視察した松平信綱の命により、 名護屋城は破却されたといわれる。こうして文禄・慶長の役の後、 名護屋の地は城も城下も消え、再びもとの寒村へ戻った。現在、城郭の遺構はよく残っているので、国特別史跡に指定されている。

田島神社

加部島の東端にあり、社伝によれば県内最古の神社といわれる。加部島は東松浦半島の北端にある呼子港の玄関口に位置しているため、田島神社には古くから航海安全を司る宗像三女神が祀られている。
宗像三女神とは、天照大神の三女神である田心姫命(多紀理比売)、湍津姫命(多岐津比売)、市杵島姫命(市杵島比売)で、宗像氏の氏神とされており、田心姫命は沖ノ島の奥津宮に、湍津姫命は大島の中津宮に、市杵島姫命は辺津宮に座している。宗像三女神を奉斎する神社は全国で6200余社あるといわれるが、宗像大社はその総本宮である。

文禄・慶長の役

文禄元年(1592)から慶長3年(1598)にかけて、豊臣秀吉が明征服を目指して朝鮮に出兵した戦争。朝鮮では当時の干支をとって「壬辰・丁酉の倭乱」という。秀吉は天正13年(1585)関白就任直後から明征服構想を持ち、天正18年11月朝鮮使節に明征服の先導をするよう要求したが、朝鮮はこれを拒絶した。

*文禄の役

文禄元年4月、釜山に上陸した日本軍は16万の軍勢で北上し、 わずか20日間で首都漢城(ソウル)を落し、開戦2ケ月間で朝鮮半島を席捲、一時は明の国境まで迫った。しかし、明の援軍が参戦し、日本軍は漢城に撤退、その後は一進一退を繰り返しため、講和の動きが活発となった。慶長元年(1596)9月、秀吉は、明の使節を大阪城で引見したが、明国王の答書は秀吉が提示した和議条件をことごとく認めず、「ここに特に汝を封じて日本国王となす」とあるのみだったので、秀吉は大いに怒り、明の再征を決意した。

*慶長の役
慶長2年2月、秀吉は14万の軍を朝鮮に派兵し、慶尚南道の沿岸に城郭(倭城)を普請させ、これを日本軍の拠点として、当面の攻撃目標を全羅道においた。しかし、慶長3年8月、秀吉が伏見城で没したので、 徳川家康ら五大老は朝鮮在陣の諸大名に帰国の命令を下し、ここに前後7年間にわたる朝鮮出兵を終わった。

倭城

倭城とは、文禄、慶長に役で日本軍によって朝鮮半島に築かれた城郭群の総称である。 本来は朝鮮側が日本側の城郭を「倭=日本」の城の意味で倭城を呼んだものである。倭城の調査区域は、まだ朝鮮半島南端に限定されているが、その数は消滅したものも含めて30ケ所ほどあり、殆どが慶尚南道の東部と南部の沿岸に集中している。それらはいずれも海に面した丘陵部に高い石垣を巡らし、陸からは攻め難く、海からは出入りがしやすいように構築された、きわめて実戦的な軍事施設であった。これらの倭城のうち、黒田如水公と長政公によって築かれたが、釜山の北にある機張倭城と梁山倭城である。両城とも総石垣で中心部を築き、それを何重もの石垣や土塁、堀によって守る形態で、長期の籠城戦に耐えられるように工夫されている。
この時の経験が後に筑前六端城の築城に生かされ、中でも鷹取城は、機張倭城の延長線上にある城で、戦乱に備えた実戦本位の構造をなっている。

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