9月13日(日)福岡市博物館で、「後藤又兵衛、黒田家退去の理由と生存説」と題して会員の大林憲司さんの講演がありました。大林憲司さんは作家であり、福岡地方史研究会会員でもあります。


黒田二十四騎の一人として、また大阪城五人衆の一人として知られる後藤又兵衛に関する各種文献、資料より黒田家退去の理由と生存説についてのご考察の紹介を頂きました。

後藤又兵衛は慶長11年6月以降に黒田家を退去しているようである。通説の黒田長政との不仲説は間違いで長政は「右腕は後藤又兵衛、左腕は小河久大夫」と信頼していた。ただし、豊前・小倉の細川家とは頻繁に書状を取り交わしていた。そのことを止めるよう言い渡し、誓詞も書かせていたが、その後再び前の細川家とは通じる様になった。黒田家側から見ると、これが黒田家から退去した理由と考えているよう様である。
この頃、黒田家は江戸城天守台の工事を任されており、現在の静岡県や神奈川県の石切場から江戸城へ運んでいたが、後藤又兵衛は静岡県伊東市近くの細川家の石切場で石を切り出している証拠がある。何らかの事情で細川家の石切場を使うことになり、結局は細川家と関係を持ったという理由で役目を解任されて国元に帰されたのではと推測している。
黒田家退去の後、豊臣秀頼のいる大坂城に入城して大坂方の主力武将の一人になる。大坂夏の陣の前哨戦で徳川方と戦い、鉄砲隊に撃たれ慶長20年5月に死亡となっている。ところが、後日後藤又兵衛の義弟が、偶然京都の町屋で見かけて話をしている。また細川家の記録にも京都で生きていて療養中に亡くなったとしており義弟証言とも一致している。もし生きていたとしても大坂夏の陣からそれほど年月を経ずに亡くなったと考えている。
