長政公第398回御忌に墓参を行ないました

長政公の命日である8月4日、第398回御忌法要が中止になる中で、理事有志17名による墓参を行ないました。梅雨が明け日差しの強い中、墓石廻りの清掃と花立ての清掃・水替えとを行なった後、11時頃から各理事が墓参を行ないました。

墓石廻りの清掃
墓参にあたっての山崎会長の挨拶
山崎会長を先頭に各理事が墓参を行ないました
墓参が終わってみんなで記念撮影です

終了後は直会として場所をタカクラホテル福岡に移して昼食会を行ないました。

直会(於タカクラホテル福岡)

昼食会の後は山崎会長の経済界に及ぼすコロナの影響と今後の政局について講話があり、出席者の皆さんは熱心に聞き入っていました。普段は聞かれない政界のことなどもお話くださいました。

昼食後、講話をされる山崎会長

令和2年総会が開催されました

新型コロナウィルスの影響で、例年より1か月遅れの6月21日に警固神社神徳殿で開催されました。

総会会場は警固神社神徳殿

山崎会長は挨拶の中で、「3月19日に一般社団法人が認可され、新しい形を持った会としてスタートした。コロナの影響で法要の取り止めがあって会の行事にも支障も出てきたが、郷土の歴史を掘り下げ、文化の振興に力を尽くしたい。」と述べられました。

挨拶される山崎拓会長

議案は、令和元年度の事業・決算報告と藤香会の行動基本方針および令和2年度の事業計画・予算、役員改選に伴う審議が行われ、全議案とも執行部提案通り可決されました。

審議する出席会員

終了後の講話は、福岡銀行顧問・小幡修さんの「福岡銀行の歴史から見た黒田家とのかかわり」と題しての講演がありました。

お話をされる講師の小幡修・福岡銀行顧問

福岡銀行の起源は国立十七銀行で、明治10年に認可され明治30年には民間銀行として時の大蔵大臣松方正義伯署名の指令書が発行された。明治37年の財政危機で安田銀行(現みずほ銀行)の支援を受けて安田銀行より役員を招いたが、この時の筆頭株主は黒田家13代当主長成(ながしげ)公であった。その後大正12年には安田銀行との合併進める黒田決議書が出ましたが、採択はされませんでした。

福岡銀行は天神地区の町づくりにも積極的でした。本店のあったところに中央郵便局が移り、天神市場の後が本店となり、郵便局の後は西鉄グループの福ビルとなり、福岡の中心街となりました。

如水公の墓参りを行いました

如水公のご法要はコロナウィルスの感染を防ぐため、中止となりましたが、命日の3月20日に有志12名でお墓参りをしました。

墓所の桜は1本を除いてまだ咲いていませんでしたが、暖かな天気に恵まれての墓参となりました。お寺では朝の勤行で法要に代わって如水公の霊を弔っていただいているそうです。

一本だけ満開となっていた桜
参拝の前に花立て廻りの清掃です
有志12名の参詣
墓参が終わってみんなで記念撮影

如水公ご法要中止のお知らせ

ご承知のようにコロナウィルスによる新型肺炎の感染が拡がっています。

藤香会では3月20日の如水公ご法要に関連する一連の行事を中止することにいたしました。

・3月15日(日) 黒田家墓所の清掃

・3月20日(金) 如水公第417回御忌法要および懇親会

・3月21日(土) 光雲神社への参詣

・3月22日(日) 桜井神社ほかへの参詣

出席をご連絡頂きました会員には誠に申し訳ございませんが、事情拝察の上、ご了承くださいますようお願いいたします。なお、現時点では4月以降の諸行事は予定通り実施いたします。

皆さまには健康に留意されて過されますよう、お願い申し上げます。

忠之公367回御忌法要が執り行われました

命日の2月12日小雨模様の中、長髙様を始め会員、賛助会員72名の参列者を得て法要を執り行いました。藤田紫雲老師の読経が続く中、長髙様、山崎会長、毛屋副会長の焼香に続いて会員が焼香を行いました。

藤香会を代表して、左より長髙様、山崎会長、毛屋副会長
焼香する会員の皆さん
長髙様のお礼の挨拶

法要の後、老師は忠之公は非常に慈悲深い人であったと言って、山伏の話をされました。道を外れた山伏を他の山伏が誅しようとして忠之に命を助けられた上に金子まで賜る。その山伏は忠之公恩に報いるため終生仏道に励み、忠之の死を聞いて殉死したということである。忠之公に殉じた5人の家臣の墓と同じ五輪塔の墓がある。

藤田紫雲老師の法話、「慈悲深い忠之公」

その後2階に移り、吉田征則さんの卓話「福岡藩吉田家の歴史」と題して播磨の時代から福岡藩の幕末までの吉田家の歴史を先祖5代の人を紹介する形で説明をされた。

講話の講師吉田征則会員

お昼は長髙様を囲んで懇親昼食会となった。

懇親昼食会の皆さん

今回は賛助会員の参加も多く、西日本シティ銀行久保田会長、読売新聞社中井社長、三友機器の河内社長、ノムラの野村社長などが参列された、新入会員では吉田道央さん、米村旭翔さん、坪内勇三さん、中村泰三さんが紹介された。

歴史勉強会が開かれました

9月20日(金)午後1時30分より福岡市博物館講座室で毎年恒例になった歴史勉強会が開催されました。会員および一般の150名を超えるの出席をいただいての盛況ぶりでした。

会場のある福岡市博物館

演題は、「黒田騒動の展開  ――大膳忠臣説を読み解く――」と題して、九州大学基幹教育院教授福田千鶴先生の1時間30分を過ぎる講演でした。

受付け

最初に山崎拓会長は「勉強会において郷土の歴史について理解を深め、郷土を愛するようになっていただきたい。昨年西日本新聞に連載された『福博ヒストリア 黒田家7代の点描』で福岡藩の歴史を書かれた時から講師をお願いして、やっと今年実現した。」と挨拶された。

山崎会長の挨拶

福岡藩は、長政が亡くなった元和9年には大譜代72家、古譜代84家、新修45家があり、1万石以上の家柄は実に7家もあった。忠之は高禄家臣の排除を目指し、その結果として栗山大膳の知行を召し上げ、屋敷を取り囲み一触即発の状態となった。それは大膳のみならず高禄家臣の排除でもあった。豊後府内の竹中重義が福岡で仲裁に入り、大膳を日田に引き取る。大膳が福岡城を退出する時の人数は500名とのこと。

忠之が凡庸であったかについては、長政の教育にこれからは政務の器用(政務に役に立つ技量)よりも多少“うつけ”であった方が良いとも言っている。このことから忠之は“うつけの3代目”と言われ、各藩大名も“うつけ”と認識していた。これが結果的には良かった。

幕府は各藩の家中のことは各藩に任せ、幕府は介入せずとの方針だったため、大膳は忠之に謀叛ありと訴えて介入させたのである。ただし大膳は黒田家(長政)が徳川家康から感状をもらっているのを知っており、これで改易されることはないと見通していたのではないか。

結果的に忠之に謀叛なしとし、一旦領地は召し上げられるが、その日の内に安堵される。

安堵された後は、高禄家臣は忠之から知行を減らされながら貰うことになる。大膳も盛岡南部藩に流罪となるが、扶持を貰って5里四方歩行自由という寛大な処置となった。

戦国期から近世への過渡期に起きた旧武将団と領国経営をしなければならない藩主との軋轢と見ることができる。

講演される九州大学基幹教育院教授福田千鶴先生
プロジェクターを使って説明される福田千鶴先生
150名を超える参加者
質問する参加者(会員)
毛屋副会長のお礼の挨拶