黒田佐兵衛(翠峯宗玉童男)350年忌

10月25日(日)、黒田光之公の三男で夭逝(6歳)された黒田佐兵衛様の350年忌が、黒田監物(けんもつ)一族の菩提寺である妙楽寺で執り行われた。当日、妙楽寺では開山忌と藤蔭流の大茶会も同時に催された。法要は黒田長髙様はじめ多くの檀家(約80人)のほかに藤蔭流会員の和装の婦人(約20人)も多数出席され、厳かの中にも華やかな式典となった。藤香会から山崎会長はじめ毛屋副会長、中島顧問、田島事務局長ほか大島、篠原、近藤、原の各理事が出席した。

法要は開山忌から始められ、臨済宗大徳寺派のお寺から出席された20人ほどの僧侶の読経が本堂に響き亘り、圧倒される。引き続き黒田佐兵衛様の350年忌となり、黒田長髙様から一人ずつ藤香会の焼香となったが、多数の檀家さんたちは持ち回りの焼香でした。

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ご法要の様子

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妙楽寺での出迎え

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黒田左兵衛様のお墓

法要が終わり、多くの僧侶が退席された後、黒田長髙様が檀家の皆さんにご挨拶され、山崎会長からは藤香会のお話をされた。その後故人を偲びお斎に入り、妙楽寺の檀家と藤香会との交流の場となった。

法事の始まるまでの時間を利用して、開山堂に隣接する「開山堂侍真寮」で黒田長髙様と一緒に藤香会員も藤蔭流の煎茶のおもてなしを受けた。その後渡邊住職から本堂の裏手にある黒田佐兵衛様のお墓を始め、黒田家重臣の墓石、神屋宗湛の墓地を案内して頂いた。

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藤蔭流による煎茶の接待

*妙楽寺の掲示板

正和5年(1316年)の開基とされ、山号を石城山と号します。山号の由来は、当時海浜の石累上に堂々営構された当寺が、海上から見るとまるで石城のように見えたことに因むものです。創建当初は博多湾岸の沖の浜にあり、遣明使一行が宿泊するなど重要な外交施設の一つでした。天正14年(1586年)に一時消失しますが、慶長5年(1600年)福岡藩初代藩主黒田長政の入国後、この地に移転されました。墓所には黒田家重臣の墓石が立ち並び、博多の豪商神屋宗湛の墓が残ります。

*黒田長髙様の挨拶

「妙楽寺を訪ねるのは初めてですが、渡邊住職には崇福寺で何度もお世話になった。掃除の行き届いたお墓を案内して頂き、住職のお話を聞き、黒田家との縁が深いことを感じた。」038s

*山崎会長挨拶

「藤香会は、黒田家の顕彰と歴史を学ぶ会です。多くの黒田家所縁のお墓のほかに神屋宗湛のお墓があるのには感銘を受けた。」

史跡巡りのバスツアー

10月13日、天気に恵まれて会員26名が、福岡藩の支藩東蓮寺藩のあった直方市に向かいました。

地元直方の歴史を語る会“とおれんじ”の榊事務局長さんをはじめ会員の方の懇切丁寧な説明と案内により、直方藩主館跡、雲心寺、西徳寺、多賀神社、石炭記念館、近津神社などを見て回りました。

直方は、福岡藩初代藩主長政公の四男高政公が4万石を与えられ東蓮寺藩として始りました。二代之勝公も三代長寛公もそれぞれ福岡藩の忠之公、光之公の実子で東蓮寺藩へ養子となり、藩主を相続します。長寛公は福岡藩に迎えられ、綱政公として四代藩主となります。直方藩は光之公の四男を養子として迎え、四代藩主長清公となりますが、この代で再び廃藩されました。

東蓮寺藩は三代長寛公の時、直方藩と改称されます。

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西徳寺前での記念撮影

 

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西徳寺にある貝原益軒の銘のある梵鐘

 

寺雲心

雲心寺にある直方藩主の墓所で記念撮影

 

近い

近津神社にある「黒田二十五騎」の大絵馬

 

昼食

皆でおいしいお昼を (直方いこいの家で)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

直方は、福岡藩初代藩主長政公の四男高政公が4万石を与えられ東蓮寺藩として始りました。二代之勝公も三代長寛公もそれぞれ福岡藩の忠之公、光之公の実子で東蓮寺藩へ養子となり、藩主を相続します。長寛公は福岡藩に迎えられ、綱政公として四代藩主となります。直方藩は光之公の四男を養子として迎え、四代藩主長清公となりますが、この代で再び廃藩されました。

東蓮寺藩は三代長寛公の時、直方藩と改称されます。

全国藩校サミット福岡大会、開かれる

江戸時代に各藩が設置した藩校の教育を現代に生かそうという「第13回全国藩校サミット福岡大会」が10月3日福岡市のホテルニューオータニ博多で開催されました。およそ1,400人が参加し、藤香会からも10数名の会員が出席しました。

全国から旧藩主の当主32名も出席され、福岡藩からは第16代当主黒田長髙様が大会名誉会長として参加されました。

大会は「グローバル時代を拓く藩校の息吹」をテーマに、漢字文化振興協会の石川忠久会長が、福岡藩出身の金子堅太郎について講演され、講談師の神田紅さんは講談で会場を沸かせました。

福岡藩の藩校であった修猷館高校OBによるパネルディスカッションも行われ、最後に「和魂洋才の精神を未来にわたって教育の場に醸成する」という福岡宣言を採択して閉会しました。

次回は、来年11月に福岡藩8代藩主治高公の実家(多度津京極家)である香川県丸亀市で開催されます。

長髙様挨拶

サミット会議での大会名誉会長黒田長髙様の挨拶

会議   藩主を交えたサミット会議の模様

藩主

壇上の旧藩主家の当主の方々

藤香会1

参加した藤香会会員

藤香会2

参加した藤香会会員

歴史勉強会が開催されました

恒例の歴史勉強会が9月18日(金)午後1時30分より福岡市博物館 1階講座室で開催されました。会員と一般市民の方60名が熱心に聞き入っていました。

講師は博物館学芸員の高山英朗先生で、「関ヶ原の戦いと黒田長政」と題して1時間半の講演をいただきました。

関ヶ原合戦には直接触れず、戦前と戦後における黒田長政の動きを中心に説明されました。

戦前には、西軍に与することになった毛利輝元や従兄弟の吉川広家の領国安堵の約束を家康に取り付けて、実質的に参戦できなくしたこと。小早川秀秋を西軍から寝返らせて東軍に数的に優位の状況をもたらしたことなど、長政や相手方の血判起請文の古文書を提示されて説明されました。

また戦後は大坂城請取のため、大坂城西の丸に在陣していた毛利輝元軍を撤退させ、大坂城を無防備に近い状態にしたこと、大坂城下の治安回復のための法度(法律)を作るように家康より指示された文書も提示されました。

このように戦後手続きをうまく処理したことも、筑前52万石という大藩を預ることになった原因ではないかと思うと話されました。

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受付の浜田理事と松尾事務局員

 

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毛屋副会長の挨拶

 

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講師の高山英朗福岡市博物館学芸員

 

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熱心に聞き入る参加者

 

開催中の「大関ヶ原展」の観賞券を特別料金の1,100円(通常1,300円)で販売し、多くの人が求めました。

長政公の第393回御忌法要が執り行われました

8月4日の長政公の命日に当たり、長政公のご法要が崇福寺で執り行われました。

今年は16代当主黒田長髙様を迎えて、藤香会会員約70名が参列して行われました。

長政公の肖像が掲げられた本堂で岩月海洞老師の読経の中、長髙様を初め参列者がご位牌の前で焼香をしました。

その後、黒田家墓所に向かい、僧侶の読経が続く中を墓前で順次焼香を行いました。

長髙様は挨拶で、「黒田家墓所は福岡市に寄贈したが、実際に守ってくれたのは藤香会で、感謝したい。これからも大事にしていってほしい。」と話されました。

中島顧問は、「福岡市の基礎を築いた如水公、長政公の遺徳を顕彰し、業績を語り継いでいきたい。」と述べられました。20150817記事-1

本堂で焼香される長髙様

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焼香の後、挨拶される長髙様

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長政公墓前での焼香

会員東旭秀(恵美)さんの相島での演奏会

本会会員の東旭秀(恵美)さんの筑前琵琶の演奏会が7月23日(木)に相島で開催されました。

朝方の雨が晴れ上がり、会場の相島きずな館には100名くらいの人が詰め掛けて熱心に聞き入りました。当会会員の姿も見えました。

相島は江戸時代に朝鮮通信使の寄港先となり、福岡藩からも家老をはじめ多くの藩士、儒学者などが応接をしました。現在でも島民はわずか300名程度ですが、朝鮮通信使が立ち寄る際には、朝鮮通信使一行が500名、対馬藩からの警護が500名、福岡藩からの応接が4~500名で、島には2,000名近くの人が滞在したことになります。

東旭秀さんは、当会会員の中村旭園先生の弟子で大師範の肩書をもつ筑前琵琶の第一人者です。

相島きずな館では「羅生門」の語りを、配布された資料を基に解説をされた後、演奏をされました。

東旭秀-20150724-1「羅生門」を演奏中の東旭秀さん

 

 

 

 

 

 

東旭秀-20150724-2解説を熱心に聞き入る参加者たち

 

東旭秀-20150724-3演奏を終えて、相島きずな館玄関前

 

その後、観客のみんなと一緒に筑前琵琶の伴奏で「黒田節」と「荒城の月」を合唱しました。

間近で演奏を聞くことができ、また東さんの表情や息遣いなどを拝見でき、感激の様子でした。

きずな館での演奏を終えて、近くの神宮寺(浄土宗)で仏前奉納として「敦盛」を演奏されました。神宮寺は朝鮮通信使寄港の際、筆頭家老黒田三左衛門(美作)が宿泊したところです。

東旭秀-20150724-4神宮寺の仏前奉納演奏中の東旭秀さん (「敦盛」)

東旭秀さんの今後の活躍をお祈りいたします。

 

会員東旭秀(恵美)さんの演奏会 その2

5月1日付で掲示しました当会会員東旭秀さんの筑前琵琶公演に追加があります。

日時   平成27年7月23日(木) 午後12時45分より約1時間15分

場所   福岡県新宮町 相島きずな館

JR福工大前よりコミュニティバス・”マリンクス相らんど線第1ルート”で新宮港へ(渡船場)

町営渡舩で相島へ 下船後、徒歩にて相島きずな館へ

JR福工大前   新宮港着   新宮港発   相島着

7:14   7:24   7:50   8:07

8:19   8:29   9:20   9:37

10:59  11:09  11:30  11:47

演題   「羅生門」、その他お話しを交えて2~3曲演奏します

その他  入場は無料です

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黒田長髙さまと東旭秀さん

相島は、江戸時代11回にわたって朝鮮通信使が訪れた島です。福岡藩も家老を初め多くの武士や儒学者が応接にあたりました。現在も使用されている波止(先波止や前波止)や客館跡が残っています。

黒田家文書「朝鮮人来聘記」が世界記憶遺産に向けての暫定リストに登録

黒田家14代当主黒田長禮様より福岡県に寄贈された黒田家文書のうち「朝鮮人来聘記」15点(11回目の通信使の時の記録)が、日韓の団体が進めている朝鮮通信使を世界記憶遺産にするための暫定リストに登録されました。

朝鮮通信使は1607~1811年の計12回、朝鮮王朝が幕府に派遣し、そのうち11回は福岡県の相島を訪れました。福岡藩は家老初め大勢の武士や儒学者が応接に当たり、情報の交換、学術の交流を行ったことで知られています。

貝原益軒は相島で天和2年(1682)通信使来朝時に李林学士鵬溟と漢詩の唱和や朝鮮儒学界への質問を、また生涯を通じて朝鮮漂流民との筆談による取り調べと保護を行っています。

対馬の儒学者雨森芳州は、藩主に対する意見書である「交隣提醒」に簡潔明瞭に記し、両国の外交に携わる人々にはこの精神を持つ必要性を説きました。その「交隣提醒」には「朝鮮交接の儀は第一に人情時勢を知り候事、肝要に候」から終末は、「誠信と申し候は実意と申す事にて、互いに欺かず、争わず、真実を以って交わり候を誠信と申し候」と書かれています。

江戸時代に朝鮮通信使によっておよそ260年間にわたって平和な隣国関係が続いたことが今回のユネスコ世界記憶遺産に登録しようという契機になったものです。

順調に行けば、2017年にはユネスコの世界記憶遺産になる予定です。

平成27年度総会が開かれました

平成27年5月17日、例年のように鳥飼八幡宮参集殿で藤香会の総会が出席61名、委任状提出者106名、合計167名によって開かれました。

山崎拓会長は、大河ドラマも終わり、藤香会も本来の姿に立ち返り、皆さんの意見を聞きながら藤香会の発展を目指したい。黒田奨学会、福岡城市民の会などの関係団体とも協力を計っていきたい、と挨拶されました。

その後、議長に天本理事を選出して議案の審議に入りました。26年度の事業および会計報告と27年度の事業計画と会計予算とを原総務担当理事および秦会計担当理事から説明され、それぞれ拍手でもって承認されました。役員の改選については一部の役員の異動を含む執行部原案とおり承認されました。

休憩を挟んで講師の福岡地方史研究会幹事の松岡博和氏による「官兵衛と茶の湯」の講演がありました。「名将言行録」には秀吉との茶室での密談から如水が茶の湯を好むようになったことが記述されているそうです。如水の茶の湯は、四大茶会記や宗及自会記などにも見られ、千利休が如水の色紙を鑑定した書状などを説明されました。宗湛茶湯日記には鳥飼松原での茶会のことが記され、侘び茶を体得した茶人であったことがうかがえます。

講話終了後、昼食を伴にしながら、自己紹介などを通じて会員の懇親を深めました。